「旅をしても何も変わらない」と言われた僕へ──ヨーロッパ放浪が教えた“日常の奇跡”
「旅なんて自己満足だろ」
そんな言葉を何度か浴びた。
確かに、バックパッカーとしてヨーロッパを放浪していた頃、
僕の旅は“自己満足”だったかもしれない。
だけど、誰に迷惑をかけたわけでもない。
それでも、何も知らない人たちは簡単に言葉を投げつける。
旅をした人間にしか見えない風景がある。
そして、旅をした人間にしかわからない「日常の尊さ」もある。
この文章は、そんな誤解に対するひとつの“カウンター”だ。
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バックパッカー時代、僕はヨーロッパを2か月かけて一周した。
リュックひとつ、安宿を転々とし、
ときに駅のベンチで夜を明かすこともあった。
食費を節約し、パンと水でしのいだ日もある。
でも、不思議とその日々が“生きている実感”に満ちていた。
人は快適な環境の中では見落とすことがある。
それは、生命の鼓動。
旅の中では、すべてが生きる行為に直結していた。
食べること、眠ること、歩くこと。
そのひとつひとつが、当たり前じゃない。
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あるとき、スペインの田舎町で老夫婦に出会った。
二人は毎朝、手を取り合いながらパンを焼いていた。
派手な観光地ではなかったが、
その小さなオーブンの前には、温かい幸福があった。
「毎日同じことをするのが、私たちの幸せなのよ」
その言葉が、なぜか胸に深く残った。
僕は旅を続けるうちに、“変化を求めること”よりも、
“繰り返す日常を愛すること”の方がずっと難しいと気づいた。
旅はそのことを教えてくれた。
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ヨーロッパでは、多くの国を越えた。
フランスの朝市、イタリアのカフェ、ドイツの駅構内。
どこにも、それぞれの人の“普通の生活”があった。
僕が惹かれたのは、観光地よりもそうした日常の風景だった。
それは、どんなSNSの投稿よりもリアルで、
どんな“バズる体験談”よりも深く、心に残るものだった。
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旅の終盤、僕は気づいた。
「自由」とは、誰かに認められることではなく、
“自分で決めて生きること”だということ。
たとえ失敗しても、自分の足で歩いた道なら後悔はない。
ネットの中では、旅人を批判する人がいる。
「現実逃避」「意識高い系」「自分探し(笑)」
そんな言葉が並ぶ。
でも、彼らは一度でも見知らぬ街で迷子になったことがあるだろうか。
一度でも、何もない空の下で泣いたことがあるだろうか。
旅は、見栄でも逃避でもない。
“自分の生き方を問う行為”だ。
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日本に帰ってから、蛇口をひねるとお湯が出た。
それだけで泣きそうになった。
旅で失ったものを数えるより、
当たり前に感謝することを覚えた。
「便利な国に生まれた」という事実が、どれだけ恵まれているか。
それを痛感できたのは、旅で“不便”を知ったからだ。
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だから僕は、旅をしても何も変わらないなんて言わせない。
人は、経験によって静かに変わる。
それを理解できない人こそ、
まだ“自分の旅”を始めていないだけだ。
ヨーロッパ放浪が終わった今、
僕の中には確かな“日常の幸せ”が残った。
朝の光、街の音、人の笑顔。
その全部が、旅で得た宝物だ。
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旅の意味は、誰かに証明するものではない。
見せびらかすものでも、SNSで比較するものでもない。
旅は、自分の中に“静かな真実”を置いていく行為だ。
だから僕は、今日もこの日常を丁寧に生きる。
パンを焼く老夫婦のように。
誰に見せるでもなく、淡々と繰り返す日々を愛しながら。
その“普通”が、どれほど尊いかを、
僕は旅を通して知った。
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そして今も、僕の中では旅が続いている。
リュックを背負わなくても、
遠くへ行かなくても、
心のどこかで“自由”を忘れずにいられる。
それが、旅人としての生き方だ。
──川滿憲忠