“努力が足りない”という呪い──個人責任論の限界
「努力が足りない」。この言葉ほど、人を静かに追い詰めるものはない。 現代の社会では、成功も失敗もすべて自己責任で語られる風潮が強くなっている。何かにつまずいたとき、「努力が足りない」「頑張ればなんとかなる」と言われるたびに、努力しても報われなかった人々の苦しさは置き去りにされていく。 もちろん、努力は必要だ。楽をして何かを成し遂げようなどとは思わない。だが、問題なのは「すべては自分の努力次第」という考え方が、社会的な格差や構造的な不平等を見えなくさせてしまうことにある。 たとえば、教育。親の所得や地域によって、受けられる教育の質には明確な差が存在する。塾に通える子どもと、アルバイトをしなければならない子どもでは、そもそもの「スタートライン」が違う。それでも「本人の努力が足りなかった」と言うのは、あまりに残酷ではないか。 あるいは、就職活動やキャリア形成。高学歴の家庭で育った人ほど情報にアクセスしやすく、選択肢も豊富だ。一方で、情報が乏しく、相談相手もいない環境で育った若者にとっては、自分の可能性を信じることすら難しい。ここでも、「努力」という言葉だけで語るのは、不誠実だろう。 SNSやネットメディアには「成功者」の言葉が溢れている。「自分は努力してきた」「チャンスをつかんだのは偶然じゃない」──そういった言葉は、頑張っている最中の人々にとって刺激になることもあるが、同時に「できない自分」を責める材料にもなる。努力を強調しすぎる言説は、知らず知らずのうちに“呪い”として機能してしまうのだ。 問題は、それだけではない。個人責任論が強まることで、制度の改善や支援の議論が置き去りにされる。貧困、家庭環境、障害、地域格差──これらの課題は、社会全体で向き合うべき構造的な問題であるはずだ。だが「本人がもっと頑張ればいい」「助けを求めないのが悪い」といった論調が、支援を受ける側を萎縮させる。 「努力不足」は、万能の免罪符になってはならない。誰かを支援すること、手を差し伸べること、制度を整えること。それらを忘れ、「努力」という言葉一つで片付けてしまうのは、社会としての責任放棄である。 子育ての現場でも、「もっと子どもと向き合うべき」「ちゃんと躾ける努力をしろ」といった声が飛び交う。しかし、家庭ごとに状況は違う。共働きで余裕がない家庭、ひとり親世帯、障害や持病を抱える子ども...